牧師書きもの

このエントリーをはてなブックマークに追加
牧師のあちらこちらに書いてきた書き物集です。
もしよろしければ、つれづれなるままに、お読みください。

◇2016年
○『京都青年(京都YMCAニュース)』2016-12 第708号

「クリスマスは光の園に」
 クリスマスを迎える季節(シーズン)は、きっと多くの人にとって、特別な光が舞い降りた時として感じられた―いえ、今も感じられているのではないでしょうか。

 日が早く暮れゆき、夜が長くなっていく。そして寒さが身に沁みて、肩をすぼめながら、帰路を足早に歩きゆく。ある一面だけを見つめれば、侘びしさと暗さとに心沈みゆきそうになります。
 でもわたしたちは知っています。寒さを感じるほど、夜の暗さが周りを包むほど、ストーブの暖かさとキラメク光の時が近づいていることを。ロウソクの炎を模したイルミネーション灯る光の木々が街中に現れ、キャロルと降誕の讃美歌が響き渡る、その最中。大好きな人の笑顔を思い浮かべ、”クスッ”と一人口元を緩めながら、プレゼントを用意して、待ち望む―この暗い、でもくしき光の輝くスペシャルな夜へ。
 「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)

 わたしのクリスマスイヴの原風景は、雪が天から舞い降る、燭火讃美礼拝から帰る雪の道。いつもと違うともし火に照らされた教会。イヴの旭川では、雪がいつも降っていたように感じます。夜なのに完全な闇ではありませんでした。雪雲は薄いピンク色に灯っていて、光が凝(こご)ったような雪が、哀しみに凍えた地を覆いつくしています。綿の布団のように柔らかな雪―それは、きっと光が”かたち”を得て天から降りてくる。光が降る―光がフリツモル。氷点下の中に凍えているはずなのに、どこか温かい、そのイヴの夜。”今夜にはサンタクロースがやって来て、プレゼントを置いていってくれる”
 「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)

 ワクワクする思いが抑えられず、またあまりにも柔らなお布団のように思えて、雪の中に飛び込んでしまう。”バフッ”と音を立て、身体はそのこんもりとした雪に抱きとめられました。スローモーションのように綿雪が舞い上がり、その後に訪れる静けさと頬にあたる雪の冷たさ。綿雪の舞い上がる光の園に身体ごと受けとめられ、包まれました。すべてを投げ出して飛び込むとき、柔らな光の結晶は、キラキラと輝きながら、寒く暗い中に舞い上がるのです。
 わたしたちの人生の歩みに、痛みの雨が降り、孤独の寒さに凍え、先の見えない暗さの中に怯える時にも、きっと天から光が舞い降りて受けとめてくださると、クリスマスを思う時に信じることができるのです。くしき(不思議な)光は、一緒にいてくださると。
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)

 クリスマスの、この光満ちる季節を安心して、ぬくもりを抱(いだ)いて歩みゆきたい。どんな時代(とき)であっても。
 クリスマス、おめでとうございます。

〇『風』52号 2016年10月6日
 『基礎理論問題③「ダブルスタンダード」。…それでもなお「新しい時代」を望む』


  『改訂宣教基礎理論(以下『基礎理論』)』には、社会(国家)との向き合い方が「ダブルスタンダード(二重規範)」となりうる根本的な欠陥と問題があると言わざるを得ません。

  「(神は)国家に『剣』による統治をゆだねた」と権力による武力と暴力が無批判・無制約的に受け入れられ、しかし同時に終末論的世界観が引き合いに出されて「(教会は)『神のもの』が奪われたとき(中略)国家に抵抗する」ことが述べられます。
 この文章が「教理問答」「信仰教書」、あるいは「協定書」のようなものであれば、このような「教会と国家」の関係の反する立場の併記はありえます。しかし「宣教理論」、「方策・方針」という具体的方向を定める羅針盤において、相反する態度・方向が並列されることはダブルスタンダードとなる危険性を孕んでいます。立場やあり方の多様性は認められるべきですが、宣教理論や方策における国家との向き合い方は、ある一定のあり方が示されるものではないでしょうか。
 ダブルスタンダードの問題は、相手によって主張や立場を恣意的に変えることが可能であること、場合によっては、“玉虫色・ご都合主義”と受け止められ、信頼と信用を損ないかねないという深刻な道義上の問題があります。もし昨年から今年に出された2つの議長声明(「安全保障関連法可決」、「福島第一原子力発電所事故後五年」)が、“議長個人の一時的な声明”ではないのであれば、しっかりと「平和を実現するキリスト者」(議長声明)としての進路のみを基礎理論にも書かれたらよいと考えます。
 『基礎理論』について昨年より、あえて立場を封印し、学的に、法的にも、論理的にも、立場の違いに関わりのない所の問題3点について、僭越ながら寄稿・指摘させていただきました。現代神学の基本すら無視し、歪曲とも捉えられるような「世俗化」の言説。教憲教規の基本的精神すらないがしろにし、教会の伝統・「教会主義」を否定する論述。理論・方策としては致命的欠陥としか言いようのない「ダブルスタンダード」的「教会と国家」のあり方の記述。
 これら問題が穿(うが)つ窓から見える教団執行部のある方々の考えは、多様性を拒み、それぞれの教会の自律性・伝統を認めず、「上」から押さえつけようとする暴力的なあり方が透けて見えるようです。それぞれの教会が生き生きとあるために組織があるのであって、組織のために教会があるのではないことは自明のことと存じます。
 このことは「信頼・信用」が教団の内でも外でも崩され、崩れている現状に合致しているように思われます。それぞれの信徒・教職、諸伝道所・教会の多くが真摯にその地・その場で踏ん張り、平和といのちと愛を祈り求め、主イエス・キリストを宣べ伝え、良い研究も多くなされている一方で、その努力を無にするかのような文章が出されて、2年間も放置されていることは残念でなりません。
 恐らく、その「信頼」の回復こそが、すべての鍵なのだと思います。「平和を実現するキリスト者」を標榜するのならば、沖縄米軍基地の移設計画撤廃を求める(教団「二〇一五年平和メッセージ」。なお「二〇一六年平和メッセージ」はすべての点で二〇一五年のものより大幅に後退している)と同時に、足元で沖縄を踏みつけにしている自らを省みて、「合同問題」について、まことに話し合う必要があると思います。同時に「教師免職問題」についても、真剣に対話をする必要があるのではないでしょうか。
 教団「内」諸伝道所・教会間の信頼の回復が、まことの連帯ゆえの「互助」・助け合いを生み、困窮しながら主イエスを伝えている者たちを助けると信じます。自らの歪みを(ただ)し、平和といのちに立ち切るときにこそ、教会に集っていない人々からも再び、信頼を得て、教会に活力が戻ってくることを確信するのです。
 憎しみや恨みに歪んでいない本当の連帯・平和・いのちへの真っ直ぐな祈りこそが、新しい時代を照らすのだと、心震わせながら信じます。

参:
『改訂宣教基礎理論第二次草案』 PDF p.16 リンク
『改訂宣教基礎理論第二次草案』 PDF p.17
リンク
2015年 在日大韓基督教会・日本基督教団 平和メッセージ」PDF リンク

教団新報ウェブサイト2015年 平和メッセージリンク
2016年 日本基督教団・在日大韓基督教会 平和メッセージ」PDF 
リンク
教団新報ウェブサイト2016年 平和メッセージリンク

〇『風』2016年4月25日

『なぜ、「教会主義」を否定するのですか? 宣教基礎理論問題②』 

 “個教会の伝統を否定し、「各個教会主義の克服」を目指す”という『改訂宣教基礎理論』の言説は、「教憲・教規」に反している疑いがあります。
教憲前文において、「おのおのその歴史的特質を尊重しつつ」教団が成立したことが確認され、教憲・教規成立から今まで諸教会は、教派的・教会的伝統が尊重され、保たれてきました。しかし『基礎理論』では、基本信条等、そして聖書が引き合いに出されて、個教会の伝統・自由が否定されています(『基礎理論』、p.14-15)。この個教会の伝統・自由の否定は、旧組合(会衆派)教会の特質のそのままの否定です。そのような切り捨ては、教憲前文に反しているのではないでしょうか。
法は、切り・裁くためのものではなく、秩序を整え、いのち活かすものとしてあることを承知しています。しかし、だからこそ合同教会の基であった多様な教会を包括し、教憲・教規が規定していた「教会主義」―それぞれの教会で教師を招聘し、教会総会ですべての教会の事柄(礼拝・聖礼典・予算・決算等)が決められ、祈り、その地で独自の歩みをしていく―という在り方が否定されていくのは耐え難い思いがいたします。
また文中に繰り返し“合同教会が「真の公同教会」となる”との表現が使われていますが、違和感を覚えざるを得ません。すでに個教会は、それ自身でイエス・キリストを頭と仰ぐ「公同の教会」(使徒信条)であり、その「公同の教会」が合同して教会を形成しているのが教団であるはずです。各個教会に相対(あいたい)する“全体教会”的な「公同教会」を目指すということであるならば、受け入れがたい教会理解です。
「宣教協力」の名のもとに、権限を託された「伝道局」が力を振るい、「対象を絞って重点的に」(だれに?どこに?)伝道をするという中央集権主義。まさに聖書の権威を笠に着て、「上」から諸伝道所・教会を将棋の駒のように廃止・統合していくような身震いする事態の可能性を危惧します。
そういう中央集権的な指向―支配構造を目指している現執行部の的外れな状態が、百何十年にわたり独自の神学教育・信仰育成をしている教育・育成機関に、ささいな科目の注文を突きつける傲慢さの原因。そして聖餐―教師免職問題(教会独自の信仰的決断・伝統を教団が切り棄てた。にもかかわらず、教師を切ったというチグハグさ)の本質的問題は、教会主義の否定にあるのではないでしょうか。
都市の教会にみられがちな利己的あり方・「各個教会〔バラバラ〕主義」は克服されなければならないと思います。しかし本来的な「教会主義」は、“信頼を基にした連帯”が前提であり、生命線でした。伝道が振るわない原因は、「教会主義」にあるというよりも、安心して信頼し、連帯することができない状態であったからと思わざるを得ません。
教会・教団の未来は、多様な教会―しかもその教会は、憎しみや恨みによってねじ曲がっていない“キリストの新しさ”のただ中にあると思います。また教会の希望は、「上」からの操作にあるのではなく、本当に顔の見える信頼に基を置く“横”の連帯の中にあると信じます。

参:
『改訂宣教基礎理論第二次草案』 PDF p.14 リンク
『改訂宣教基礎理論第二次草案』PDF p.15
リンク

◇2015年
〇『風』2015年10月

 『信頼の瓦解と多様さの否定 基礎理論「世俗化」の歪曲的誤り

昨年、教会に送られてきた『宣教基礎理論』には、信頼も意味もすべてを崩すような誤りがあります。そこでは、「世俗化」との語が、俗になる堕落する無神論という意味で用いられている点で、それは間違いです。
 本来的な世俗化の内容は、教会が本来持っていた権威や諸機能(学問・医療・法等)が、この世へと移されていく過程(プロセス)です。また神学的には、非宗教的なものに変えられていく過程だけにとどまらず、むしろ聖書に根拠を持った積極的に推し進められていくべき様々な諸力・権力からの解放の過程を意味します。種々の迷信・魔術からの解放(創造)、政治権力からの解放(出エジプト)、そして様々な諸力の束縛・上からの絶対性よりの解放ということ(シナイ契約:偶像破壊)がその内容です。(コックス『世俗都市』)特に、絶対性からの解放(相対性)、すなわち偶像の否定は、金子みすずが言い表したところの「みんなちがって、みんないい」という多様さの大きな神学的根拠の一つに他なりません。
 ところが『基礎理論』では、そのような意味・内容がすべて無視され、この世に妥協して教会が俗化したあるいはこの世界の無神論にまみれて教会も堕落しているという意味につかわれます。以下引用(『基礎理論』p.9
 「この世俗化は教会の中にも侵入し、悪影響を及ぼしています。(聖書や信仰告白、伝統などの軽視、聖餐の乱れなど)。この教会内世俗化を克服するには…」
 繰り返しになりますが、世俗化とは、教会の諸機能が非宗教的なものに移管していく過程(プロセス)、歴史観ですので、「教会内世俗化」などという言葉自体が存在しようがありません。
 また、表題では、無神論を言い表すのに神なしに」というボンヘッファーを想起させるような表現(「世俗性」、「非宗教性」も)を、あえて否定的に使っています。しかしこの言葉を、前提である「神の前で、神と共に」から切り離し、無神論と置き換えて用いられることは、本来の自律性の意味内容の貶(おとし)めにすら感じます。
 仮に世俗化という用語を使うのであれば、最低で、事典に記されている意味内容を踏まえての記述であるべきです。(東神大神学会編『キリスト教組織神学事典増補版』参)
 このような初歩的な過ちに気づかずにいる日本キリスト教団の諸機能(常議委員会はもとより、信仰職制・教師検定委員会)について憂えざるを得ません。もし誤りに気づかずにいるのであれば、“不安”です。また、もし仮に誤りに気づいていながら訂正しない、あるいはあえて使っているのだとすればとても“恐ろしい”事です。信じたくありませんが、仮にそうであるとするならば、意味を捻じ曲げる事によって、教会の多様性・さまざまな在り方を否定し、従わないものは切っていくということを意味するからです。
 どうして、このような歪曲とも取ることが可能な誤りが教団の「宣教基礎理論」に書かれているのか、目を疑うばかりです。一刻も早く、訂正・削除・書き直されることを望みます。

参:
『改訂宣教基礎理論第二次草案』 p.9 kisoriron1508p9.pdf へのリンク


〇京都教区性差別問題委員会

『イエスの指される場へ―「福音」に立つ/「社会」に立つ―』 

 「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(コリント信徒への手紙一13:8~11)

 どのように読んでも、どうしても主イエスの「行け!」と指し示される場は、困窮を覚えている人びとのところなのだ。どんなに否定しても、どのように“わたしは嫌だ”と拒否してもイエスは、この世界で踏みにじられて、小さくさせられ、搾取され、重荷と労苦を負っている人びとと「共に生き、連帯しなさい」と言われる。

 昔、北海道で教会に通っていた時のこと。教会関連の平和集会があった時、その集まりに参加しましたが排他的で、仲良しグループよろしくワイワイやっている姿を見て、とても残念でした。完全無視をされる中で「何の集まりかわからない」発言をしたところ、お説教をいただきました。また、神学部に通っているとき「部落解放」関連の集会に出席し、解らない事を質問すると、「そんなことも解らないのか」と出席していた牧師に、あざ笑われ、出席者の前で馬鹿にされたことを覚えています。
 いろいろな社会問題にかかわる集会で、非常に残念に感じることが多々あります。外から来た人を受け付けず、内輪ウケ(自己満足)に終始してしまうこと。知らないから学びたいと思って来ている(関心があるから来ている)人に対して、知らない事そのものが赦しがたい罪であるかのように断罪し、あまつさえ謝罪を求めたり(罪・欠けの自覚は、自分でするもののはずで、また、そうでなければ意味がない)することがあります。無視と断罪(裁きと攻撃)が先走ってしまう集まりが、むしろ本当に大切な課題・問題から心ある人々を遠ざけていることの自覚的反省が必要だと、京都に来る前の大阪教区で社会委員長をしながら学ばせて頂いた貴重な考えの一つでした。
 一方、教会・牧師は社会の課題・問題と直接関わることは控えるべきだという発言が、最近、教団でもますますなされるようになりました(間接・限定的:『改訂宣教基礎理論 第二次草案』(第38総会期常議委員会)2014特に「Ⅴ.宣教の方法3.信徒の社会的証しについて ③」、「Ⅵ.宣教の目標2.日本社会および世界が神の国を映し出すこと ②、④」)。もし福音主義(「福音」は決して“主義”ではない!)を標榜している方々が、「聖書のみ」を主張されるのであるならば、主イエスがどこに向かわれていたか。誰と寄り添い、何とたたかい、何を(ゆび)差されていたのかを知らないはずはないはずです社会からレッテルを張られ、爪はじきにあっていた人々・弱くされ踏付けにされていた人々と寄り添われた。本来の愛の教えを形骸化した形式に閉じ込め、表面的形だけしか見なかった正統主義的傲慢さとたたわれた。「神の国」すなわち“愛の支配される場・まことの愛のみが充溢される場”を指差され、「求めよ」と言われたのではなかったか)。
 わたしたちキリスト者は、この世界で(うめ)き、打ち捨てられ、損なわれている人びとのところにおもむいて、その痛む人と共にいる主イエスと出会うように指し示されているのではないか(『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』マタイ25:40)。ドストエフスキーの『靴屋のマルチン』、あるいはマザー・テレサが現わしているように。もしそうであるならば、必然的にこの社会の課題・問題に関わり、「利害関係やイデオロギーがからみ合っているので、一方的な判断を下すことは困難」(『改訂宣教基礎理論 第二次草案』p.14)などと責任を放棄するのではなく、聖書に誠実たらんとするならば、困難な中に置かれている人と共にいる主イエスに積極的にお会いしに行き、結び合い、声を上げることこそが求められているのだと思わざるを得ません。
 左―右、社会派―福音派、革新―保守、反体制―体制。
 すぐに色眼鏡をかけて人を判断し、一方を裁き、あるいは一方と馴れ合おうとします。現代日本は、ますますその色眼鏡傾向が強まっています(0か100か的指向。「スプリッティング的指向」香山リカ)。それは、とても「福音/聖書/イエス」の在り方ではないばかりか、それこそが「的外れ」に陥っている状態なのではないでしょうか。
 自分のところこそ、わきまえているキリスト者集団。「福音の代表者」、「正統派」、「秩序の守護者」を自負・自認して、“人を切っていく”、裁いていく。“義(正義・キリスト・神)は我にあり”と言って一つの型に統治しようとすることが福音的なのでしょうか。
 福音(=良きおとずれ)は、まさに主イエスの言葉・行いによって垣間見た(立ち現れた)“新しい世界・「神の国」”を内容とする喜びであり、解放の出来事であり、自由への扉であったはずです。“あなたが考えているほど神さまは小さくないよ”という(父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方/マタイ5:45)人間的な枠組みを大きく超えられて愛を注がれている神さまのことを指し示されたことが、福音の全く大きなことの一つではなかったかと思うのです。
 「右か左か。社会派だ、福音派だ。反体制派で法を守らない。体制派で法を順守し素晴らしい。」色眼鏡・色分け・党派抗争…。
 教団執行部・その流れに追従(ついじゅう)する方々は、「律法主義」に立ち帰っていくのでしょうか。この枠(教憲教規)からはみ出したものは、認めないと言って、違反者を切り、叩き、そのようにして主イエスをまた打ち叩いて、手足に釘を打ちこみ唾を吐きかけ、十字架に架けようとするのでしょうか。

 わたしの本来の姿は、臆病な、子どもっぽく幼稚な人間です。そして、自分が批判されるのが嫌ですし、また馬鹿にされるのはもっと嫌です。
 社会的課題・社会の問題の集会に出席し、馬鹿にされたり、無視されたり、いきなり責められたりすることで、社会問題やそこで躍起になっている人に違和感を感じ、離れようとしました。何か非常に傲慢なものを感じ、また責める(攻撃・裁き)ばかりで「赦し」もなければ「和解」もない(祈りのない社会活動は、悪魔的に(おちい)。また大声で叫び声、乱暴な罵声に耐えられないと思い、そこから離れようとしたのですが、離れられない。むしろ聖書を読み、主イエスの言葉、行動、仕草に触れれば触れるほど、その痛まれている人のところでこそ、復活の主イエスは出会ってくださることが指し示されるのです。
 路上で寝ざるを得ないホームレスのおっちゃん達。お母さんからも放置されて食べ物のない女の子。米軍基地が押し付けられ続け、危険にさらされている沖縄の方々。中傷・差別が絶えず、ヘイトスピーチに(さら)される在日の方々。部落・女性・子ども・セクシャルマイノリティー・障がい者。
 弱い方々ところにすべてのしわ寄せの行くこの社会は、どれほど神さまの望まれている世界と違うかという事を聖書を透かして見るときに感じます。そしてその困難を感じている人と共にこそ主イエスはいてくださり、わたしと出会ってくださる。
 いや、わたし自身、大阪時代の後半はうつ病に罹患し、いまだに精神科のクリニックに通っています。そこから見えてくるものは、精神病に対する根強い偏見と社会の冷たさでした。一方、病を担ったゆえの新しい出会いと健康への意識(一病息災・明日ではなく今をのみ生きる)、思想的な深まりがありました。そして、何よりもイエスが共にいてくださったことが、今、感じられるのです。何もできず、何も考えられず、喜びはモチロン、笑顔さえ病に奪われる中で、共に十字架を負い苦しんでくださった主。毛布を被って、じっと一日動けないシンドサの中に、共にシンドサの軛を担って下さっていたイエス。
 まことの「福音」に立とうとする時、それはそのまま「社会」の課題へと押し出され、そこで苦しんでいる人のところに共にいますイエスに招かれるのです。嫌でも、拒否してもいかざるを得ない「強いられた恵み」が、そこにあるのです。

 幼稚な子どものように自分の考えを持たず、ただ周りに流されて歩む事を、聖書は求めていません。愛に生きようとするとき、わたしたちキリスト者は「成人した」(コリ一13:11)者として、大胆に独り立ちをし、主イエスの指し示される場に(おもむ)くことが求められています。
 自分が絶対だと信じて疑わず(自分を打ち砕けない)、意見が違う人と対話が出来ないような幼児性。自分で考えられず、グループの論理の中でしか同意できない人は、やはり成人できていないのだと思います。まことに神のみを信じ、神に信頼し、委ねている人(まさに、こどものように委ねている人)は、人間のグループの論理からも自由にされているはずです。そして、他者と対話し、もし自分に考え違いがあれば修正することが可能な人こそが、キリスト者なのではないでしょうか。
 このような主イエス・キリストにある「成人」を目指し、隣り人と出会っていく事こそが、わたしの目指すことです。
2015年3月31日記

◇2006年
〇『労伝ニュース』
 「タロウの死」     『労伝ニュース』2006

 一歩、外に出れば顔面を熱気が叩きつけ、めまいすら覚えるような夏―それが今年の大阪の夏だった。
 そんなある日。教会の外でコロ(うちの犬)がヤカマシク吠えたてていた。
 “ああ、「タロ・ジロのおっちゃん」や”―そう思っている内に、連れ合いが外に出て、驚きの声を上げていた。
 「ええー!タロウちゃんが…!」
 タロウ―僕たちが大阪に引っ越してきて、はじめてコロと仲良くしてくれた犬だった。おとなしくて、カシコイ犬。ダンボール回収をしているおっちゃんにいつも寄り添い、リアカーの中でいっしょに寝ていた。どことなく、憂いを帯びた目をした真っ白な犬だった。
 まだ小さかったコロに、ご飯を分けてくれたりもしたやさしい子。
 そのタロウが、天に召された。
 赤黒く日焼けし、深く刻まれたしわの奥のおっちゃんの目は、寂しさをたたえていた。2年ほど前から一緒に生活をしているジロウも、いつもの元気がない。―――「“家族”の死」
 「保健所に連絡したら、葬儀のためといって2,500円出せっていってな、それ出したら5日間なんも食われないけどな…」
 あの重いリアカー一杯に、夜―朝とダンボールを集めにアツメテ、500円…。71歳―昼間は、塀の陰で身体を休める。
 「市(区)の奴が来て、用意した所に入って住めばいいってゆうんやけど、その条件は、こいつらを保健所に預けろって、ゆうんや。そんなことしたら、どうなるかワカルやろ!」そう、その犬は、否、「家族」は“処分”される―前におっちゃんから聞いた言葉だ。
 大阪は「キレイ」になっている、ラシイ…。路上生活(へと追い込まれた)をせざるを得ないおっちゃんたちは、その身をも守ってくれるパートナーたち(愛する家族)と共に隅へと追いやられる。そう、イエスと共に…。
 天王寺、長居、靭、大阪城の各公園(その他、小さな公園からも)。日本橋の裏の路地からも。あまつさえ西成のニトリの脇の公園も完全封鎖…。行政代執行のニュースにすら、のぼらないうちに、大阪は「おキレイ」になっていく。
 主イエスは、「おキレイ」なエルサレム神殿の中に、いたもうたのか?

 厳しく暑い夏に、路上にて身体弱り、天に召されていったタロウ。でも彼は愛するものの傍らで、召されていった。“安心”の中で主のもとに逝った。 …真実の平安を考えさせられた―夏だった。

◇2004年

〇『教師の友』特集「ゼロからはじめる子どもの教会」記事

 今年8月6日。初めての広島。元安橋のたもとに平和の灯火(ともしび)が揺らめく。59年の年月を経てなお、原爆の火は灯されている。
 この灯火は消されてはならない。同じように子ども達の笑顔・いのちの灯火も…。いや、むしろ教会のド真ん中に子ども達がいてこそ、主の身体はいのちを光り輝かせる。
 細々と、時々一人だけ来ていた子もついぞ途絶えた。毎週の寂しい日曜の朝。つい一年半前のこと。ただ、CSの火を消してしまう事だけは、何としても防がなければならないと思っていた。「一度、止めてしまうと、全部無くなってしまう。」前任教会CSのボス(校長のこと)の言葉をかみ締めながら何とか踏み止まっていた。リーダー達もそれぞれ踏み止まっていた。自分達も含めて教会員の子弟は、もうCSにはいない八方塞の状況。
 ただ希望はあった。周りには新しいマンションが多く建ち、地域としての子ども・家族の数は増えているという。
 「場を創るのが先か。関係を創るのが先か。」ある委員会での話。なるほど。今までのCSでは、教会員・教職家庭の地域・学校との繋がり・関係で子ども達がCSに来ていた事が多かったのではないか。むしろ、関係をむすぶ事にのみ専念する“子ども解放区(集う場)”を創るべきかもしれない。それは、CSであるよりも教会宣教の最前線(フロント)の業そのもの。愛の公園。それは、暴力と全体(ファシ)主義(ズム)の嵐の唯中で愛つむぐ、いのちの「箱舟」。「約束の虹を共に」と細々と始められた『きっずあ~く』(毎月第3土曜)。毎回、歌、クラブ(工作・ベル:どちらでも自由)をし、おやつ、お話の一時間半のプログラム。こども達の生き生きしさが眩しい。また神のみ手が働いて、その内の兄妹がCSに通うようになった(奇跡(サプライズ)!)。最近は、もう一人韓国からの女の子も来るように。ただただ、主に感謝。
 自慢話(サクセスストーリー)のつもりは毛頭無い。ただ、子ども達のいのちを奪うような状況(教育基本法改悪・心のノート・改憲)の今こそ、CS・子どもの教会の愛の灯火を(わか)つ事を望む。
 絵本『ともしび』。誰よりも強さを求めた男が、イエスのともし火を運ぶ旅によって、すべてを失う。しかし、その旅は彼の人間性の、泪の、愛の回復の旅。今にも消えてしまいそうなか弱き灯火を、無様な姿ながらも守り、分け合いたい。原爆の火は、平和と祈りの火。この世の弱きをこそ、真中におく時、いのちは沸き出ずる。希望の炎はここに輝いている。



◆◆◆『室町シネマレビュー』◆◆◆

ボチボチと牧師の観て気に入っている映画のレビューをつづっていきます。
気楽にお眺めいただければ幸いです。


◎『プロミス』(2001年/アメリカ/104分)

 “彼女・彼らは、今、どうしているのだろうか……。”

 パレスチナ/イスラエルの7人の子ども達のありのままの日常とインタビューで織りなされたドキュメンタリー映画
 ――『プロミス』

 「サナベル」、「ファラジ」、「マハムード」、「ヤルコ」、「ダニエル」、「シュロモ」、「モイセ」―この映画を観ていない方には、単なる名前の羅列に過ぎません。
 でも、その子ども達は葛藤、苦難、痛み、悲しみ、喜びや希望も…抱えながら、そこに生きている
 七人という数字ではなく、一人、ひとりの人間として。

 イスラエルの少年ヤルコ「会ってみたい」―パレスチナの子ども達「会いたい」
 監督の提案にパレスチナとイスラエルの子ども達が、一日を共にする…。“隔ての壁”を越えて。好奇心が壁を乗り越える……。
 「壁」ー―憎しみの壁。民族の壁。歴史観の壁。境界線の壁。検問所の壁。未来の壁。

 この映画が撮影されてからほぼ十年。
 今、この地には、「隔離壁(アパルトヘイトウォール)」が作られ続けている。出会い・理解を妨げる壁が。パレスチナの人々の生活を破壊・分断する壁が―イスラエル政府によって。実は多くのパレスチナの人々のいのちは、奪われ続けている。ニュースは、伝えない…。

 世界がきしむ。私は、子ども達から何を奪い、何を阻害し、どう傷つけているのか。

 “彼女・彼らは、今、どうしているのだろう…。”

 それでも、そこで人々は日々、生活している。そして新しいいのちが生まれている。
 主の歩まれた地で暴力と壁は増大している、今こそ、「出会って」ほしい。

 まず、この“子たち”と。壁を越えて。

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2007年2月号掲載〕

◎『東京ゴッドファーザーズ』(2003年/日本/97分)

 イルミネーションが光を灯す。街には、いつもにも増して笑顔が揺らめくように感じられる―クリスマス・イヴ―きよし、この夜。
 そんな嬉しげで、楽しげな世界”ではないところ”で《奇跡》は、はじまる……。

 妻子ともに死に別れたと語る、ひげ面“ギンちゃん”。親の顔を知らない、でも「心」は愛と乙女のかたまりの“ハナちゃん”。訳あって家出し、性格のひねくれている(風に装う)少女“ミユキ”。
 東京・新宿。テント生活をする三人は、イヴの晩に赤ちゃんを拾ってしまう(ハナちゃんだけは、「赤子を与えられた」と喜ぶが……)。
 ああ、無謀―。 警察には届出ず、親探しを決行!次から次へと起こるハプニングとドンデン返し!(皮肉もピリッと効いてます)
 しかし、非常識キワマリナイ行動は、様々な偶然につぐ偶然を重ねて、「再生」の必然へとかたちを成していく。それぞれの本当の想いの糸が織りなされ、みんなを暖める毛布となるように。再び“生きる場所”へと、星に導かれるように。
 “現代版おとぎ話”そんなことはありえないと常識的に生き、常識の中でミイラと化そうとする“わたし”を、「回復」させる物語。 
 クリスマスのメッセージそのままを、脈動感溢れるタッチで描き出す力作です。
 考えられないハプニングも、自分の弱さゆえの自己嫌悪・あやまちすら、御手で祝されるとき必要不可欠なものとして、用いられる。
 悲惨。孤独。どん底。“居場所のない”者たちに与えられるミラクル・クリスマス。

 ゴミ山に“捨てられし赤ちゃん”が結びゆく、《奇跡》は、いかがですか?

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2006年12月号掲載〕

◎『サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS』(2001年/日本/130分)

「…ナンバーワンは、もちろんのこと、特別なオンリーワンにすらなる必要はない。―成熟とは、『かけがえのない唯一の自分と、大勢の中のひとりであるという矛盾の中に安心してのっていられる』ということ…」(あるキャンプでのO先輩牧師のメッセージより)

 とても笑えて泣ける。それでいてオモシロ爽やかで、かつ考えさせてくれる(長い!)
 “こころ揺さぶられ”ムービー。
 『サトラレ』

 「“特別な存在”から“一人の男性医師”へと受容される」物語。考えていることが半径10m以内の人々に筒抜けな(サトラレ)、それでいて優秀な頭脳を持つ存在(国家財産)。その“症例7号”は、最も向いていないであろう臨床医師を志す…。法によって、“サトラレ本人にサトラレだと悟られてはいけない(自殺防止)”世界。しかも“症例7号”は、恋をしてしまった!(想像してみてください。すべての考えが、筒抜けの人と付き合う事を…)さあ、大変!国ぐるみでの失恋大作戦!

…と、最初はワハハのシュチュエーションコメディーと思いきや…

 特別であるが故の孤独、悲しみも描かれつつ、「自分がなぜ生まれてきたのか?」。「わたしがここにいる意味は何か?」を優しく、静かに問いかけられます。  
 後半は、よう言いません(観て感じてホシイ…)。わかりつつも、ドウシヨウモナクなく、泪が頬をつたい落ちる(悔しいのですが…)
 美しい自然とどこか懐かしい故郷の原風景。そして人のこころの暖かさが響きます。
 表層的な「言葉だけが過剰に溢れ、こころの見えにくい」この時に観たい心暖映画。青春のムズ痛さ、葛藤、明るさ…。いいです。

そして―“症例7号”は、“一人の彼”へ。

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2006年10月号掲載〕

◎『ぼくの神さま EDGES OF THE LORD』(2001年/アメリカ/98分)監督:ユレク・ボガエヴッチ


森の緑が滴るような 光の中で
湖面にこどもの笑顔が 揺らめく。
その唯中で 暴力は
子らにまで 痛々しくも 映し出される。
 ―しかし
ひとりの幼子によって 罪―あがなわる。
すべての汚れ、痛み、悲しみを負いながら。

 『ぼくの神さま』

 ナチス占領下のポーランド。そのポーランドの“恥(弱いものが、さらに弱いものから搾取する)”の部分すら描きながら、こどもの視線から、静かに問いかけられる「わたし」の在り方―。―あなたは誰なのか、と。
原題「主の(祝福およぶEDGES OF THE LORD-」
わたしたちは「縁・端」の存在…。
自分の欲のために、殺してしまうような。あるいは、正義を盾に、復讐をしてしまうような。あるいは、自分を守るがため仲間(同胞)さえ裏切るような…。
しかし、そんな「はずれた切れ端(EDGES)」にさえ、なお主の祝福・いのちは豊かに注がれる。

 主を食べること(イエスの犠牲)によって、いのちに与るわたしたち。

 この映画に、英雄(ヒーロー)や力を持った解放者は不在です。むしろその時代の中で、無力さ・苦悩・矛盾・悲しみの内にいる人々が。そして、同じものを背負わざるを得ないこどもたちが描かれます。そして、主イエスとが
 暴力と不安と不信とが吹き荒れている、この“今”こそ観たい映画の一つ。

 ポーランドの美しい自然とこどもたちの成長を横糸に、神のいのちのとりなしを縦糸としながら、紡がれる平和への叙事詩。そして、こどもたちの苦悩に思いを寄せる人、必見のいのちの詩編。 ぜひ、ご覧ください。

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2006年8月号掲載〕

◎『生きる』(1952年/日本/143分)監督:黒澤明

 この映画には、沈黙が雄弁に語られます。
 その言葉にならない言葉が、「わたし」の中に“思い”を沁みこませる…。
 驚き。痛み。悲しみ。孤独。後悔。必死さ。愛おしさ。そして、喜び。

 「生きる」― …ただ、論ずる言葉ありません…

 それは、美味しいケーキを言葉で説明しても、味が解からないように。言葉を重ねるごとに、遠のいていくように。
 テーマがどうのとか、ストーリーがこうではない“力”と“いのち”が詰まっている。黒澤明の傑作、否、言わずと知れた、日本映画の傑作の一つ。

 「余命七五日の男」

 この志村喬、演じる一市役所の課長、渡辺勘治が、死を目前にして“必死”で、生きようとした。
 “それだけ”の話。そうたった“それだけ”の話を、言葉少なに語られているから…。…だからこそ、胸の内が、震えます。
 “判”で押したような、紙くずのように感じる日々の哀しみ―。違うと思いながら、組織の中でナアナアの内に死に行く苦痛―。
 一見、新生と自己犠牲の美しさに目を奪われがちなこの作品の“地”には、日々の「わたし」の悲哀がトツトツと語られ、肯定されている。人の持つ影と光のすべてが愛おしい。
 何かあかしを遺したことに、生きる意味があるのではない。人に理解されたかすら、問題ではない。その人がその時々でどう生きたかのみが、すべて…。
 絶望に沈みゆく目。震える唇。愛しさに潤む瞳。 ただ、感じていただけたら幸いです。

 「エクセ・ホモ―この人をみよさ」(byメフィスト)

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2006年6月号掲載〕

◎『ラヂオの時間』(1997年/日本/103分)監督:三谷幸喜

 超一流のシェフ―三谷幸喜の手による“寄せ鍋”エンターテイメント!
 初監督にして、どうしても最高傑作な――
 『ラヂオの時間』

 う~ん。やっぱり美味しい(オモシロイ)です。食べても、食べても飽きません。それどころか、食べるほどに味わい深い。
 そういう人って、いるいる。こういうことって、あるある。の連続とスピード感がたまらない密室フキダシ☆ムービー。

 深夜の「生」放送のラジオドラマ。主演女優のささいなワガママから端を発する、次々の矛盾。懸命のつじつま合わせ。熱海の平凡な主婦の恋物語は、いつしかマシンガンの銃撃戦のシカゴへ。はたまたダムが決壊し、宇宙船まで飛び交う超SF“風と共に去りぬ”へと…。どうする新人作家先生!どうするプロデューサー!!どうする効果音!!!

 ドタバタコメディーのように見えて、実は、とっても上質な「人間」ドラマ。
 この映画を観て、とある方の感想。
 「何ショウモナイことしてんねん」との事。
 そう、“ショウモナイ(くだらない)”事の繰り返しが、わたしたちの生そのものかもしれません。時に虫の居所が悪くて、ワガママだったり…。調子良く、人に合わせて自己嫌悪&ストレスだったり…。泣き笑いの悲喜劇の繰り返しことこそが、人生かも。
 その鋭い観察眼によって、日々のわたしたちの姿を、まさに和風ティスト、しかも爽やかな後味に仕上げてくれている監督三谷幸喜。しかもスパイスは、「希望」と「感動」。
 画面の中に“わたし”、“あの人”を発見し、ついニヤリとさせられる事、請け合いです。

「愛の力を信ぜよ!」byマルチン神父

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2006年4月号掲載〕

◎『ロッタちゃん はじめてのおつかい Lotta 2 – Lotta flyttar hemifran
         (1993年/スウェーデン/83分) 監督:ヨハンナ・ハルド


   Q:心が動かなくなってしまった時、見たくなる映画をひとつ、選ぶとしたら?
  A:いろいろありますが、一番はコレ!『ロッタちゃん はじめてのおつかい』!!


 「―小さな幸せがいっぱいつまった、勇気と優しさの物語―」
 キャッチコピーそのままの“ほほ笑み”ムービーです。“小さな幸せ”のひみつ

 ひみつ①―とびっきりキュートなロッタちゃん。強情っぱりでふくれっ面のプンプン娘。でも、みんなが泣いてる時は、笑顔のために立ち上がる希望の天使(5歳!)
 ひみつ②―パパ・ママ・お隣りのおばあさんも。みんなでワンパクたちを見守るハートフルなまなざしって、ステキっ!
 ひみつ③―クリスマスにイースター―。こどもは楽しく、昔、こどもだったおとなは懐かしく。でも、今も昔も変わりなくキラキラ光るシーズンの物語!
 ひみつ④―北欧スウェーデンのかわいいお家。センス抜群のオシャレなお部屋。可愛い着こなしのファッションに脱帽です。
 ひみつ⑤―シンプルなテーマミュージックに、効果音。いつのまにか、鼻歌交じりに歌っています。
 ひみつ⑥―ママ手作りのパンに、ミルクたっぷりのホットココア。色とりどりのキャンディーに、サンタチョコレート。画面を通して、甘く、暖かな薫りが心に届いてきそうです。
 ひみつ⑦―それは、きっと、“わたしだけ”のひみつを、あなたが見つけるでしょう。

 忘れかけていた魂の元気とピュアな潤いを取り戻す“ミラクル”ピクチャー。

 え、ストーリーですか?
 それは、観てのお楽しみ。ロッタちゃんのとりこになるかもしれません。―「バムッセ!」

〔「ビデオをみる」『信徒の友』2006年2月号掲載〕


活動報告

活動名

ここに活動の説明が入ります。

ここに活動の説明が入ります。

ここに活動の説明が入ります。